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「ジイちゃん、怖い話ししてぇ~」

「うーん、そうやな~。 おらぁ子供の時分ににゃあ、近所のバアやんが言よったワイ。

 雨のヨウ降る夜中になぁ・・・・真田堤の近くを通ると「えっさ!えっさ!」って落武者が石を積む声が聞こえるんやって。
 のーじ(野地新町)にはなぁ、昔 真田の落武者が住みついてにゃぁ、村のもんらぁで世話したったもんで、恩返しに堤防やら井戸やらを一生懸命に造ってくれたんやでぇ。」

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真田堤は昭和の初め頃まで一部が見れたそうだけど、今は護岸工事が進んでコンクリートで何もかも埋めてしまってます。 よほど想像力が豊かじゃないと、真田流の石積みは想像できませんん・・・行くとガッカリです。

「真田堤」とは北川本流の堤防の他に、尾鷲駅方面からの水路に積まれた石垣もそう呼んでいたようです。
これは一部残っている・・・見に行ってもいいですが「ドブ」ですよ(笑)。

野地新町(旧地名:野地殿)は北川が運ぶ土砂が堆積した新地で、当時の野地村の東側に位置します。

中世の新地、野地殿は幾度も北川の大水に悩まされていたのでしょう。

この治水工事は二つの工夫がされており、真田堤で北川の流れを海のほうにきっちり曲げることと、水路を南西に長く堀り、増水のエスケープゾーンを造ったんじゃないかなと思います。

真田堤と平行して掘られた水路も同じ人物の工事指導だったので真田堤と呼ばれたのでしょうか。
中世の尾鷲に最先端の治水技術をもった人物が突然現れたと考えると面白いですね。

でも「真田の残党6人が、この地に落ちてきて堤防を造った」という伝説はロマンがあってよいのですが、真相は「?」です。
当時、奥熊野は北山一揆の勢力下であり大坂から逃げやすいといえば逃げやすい・・・でも、真田信繁(幸村)は討ち死に、一族玉砕ですからね。
「難波戦記」という軍記物語や江戸時代の「真田三代記」という小説の影響も受けて、最先端土木技術のヒーロー達が真田一族と噂されたのかも知れませんね。
 
真田だったら10人(十勇士)と伝わってもいいのですが(笑)

今度、「真田堤」付近の写真を探してみます。

尾鷲市には、このコンクリートに埋もれた文化財を掘り起こして北川(旧名:どんど川原)の景観といっしょに保存してほしいと願う。
真田堤地図
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