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豊臣方の落人 その1
 
尾鷲市野地新町

当地方には豊臣方残党の隠れ住んだという話が二つ三つ残っている。
郡居雑記にも、熊野は避難の士多くあつまる所なり、相賀部便の山村に真田大助の邸跡あり、と誌されてあるが、その便の山には、今なお「真田屋敷」と呼ばれている屋敷跡がある。

山ひとつ隔てた尾鷲にも、慶長十九年大坂夏の陣のあと、さしもの豊臣家も全く滅亡して、最後まで戦い抜いた真田一族が、秋風落莫のなか、悲憤の涙をしぼりつつ残党六人とともに、尾鷲のさと野地殿(今の野地新町)にその身をかまつたという口伝がある。
それらの人々は尾鷲に安住して余生を保ち、その間 武を伝え、文を教えて、大いに郷土の開花にあずかったと思われるが、今往時を偲ぶものに真田井戸と真田堤がある。

真田の井戸というのは野地町の「豚福」こと湯浅家裏の井戸で、現在も盛んに使用されている。
この時代の井戸の特徴として、積み石の一番小さい面、即ち石の尖った先が井戸の面になって出ている。
井戸をのぞくと、一見小石で積み重ねた様であるが、石のかくれている部分は相当大きいので、この積み方なれば、絶対に崩れる心配はない。
全く良心的な積み方と言えるだろう。

もうひとつの真田堤は、北川の左岸にある堤防で、坂場の弥栄橋から勢いのついた水が、南へ流れて野地新町にドンと突き当たる。
北川はここから東に折れるのであるが、この突き当たったところが「真田の堤」である。
現在は砂利が堆積して、真田の堤もはるか川底にそのテンバだけを見せているが、どんな大水が出ても、この堤防だけは切れたことがないと伝えられている。
真田井戸と同じく良心的な積み方をしている故であろう。
大正末期までは、この堤の前も相当深くて、児童の水泳場所であったが、今はその面影もない。
だがこの堤は真田残党から尾鷲へ残されたものとして、今なお感謝の念を込めて伝え継がれている。

「伝説と詩の尾鷲 1959年 太田壽 著」
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