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2010.06.28 iPadキター♪
土曜日に川崎のヨドバシでWi-Fi 32Gモデルを予約。
「いつ入荷するか、まったく判りませんが2~3週間以内には入荷すると思います」とのこと。

しかし、突然翌日に電話が鳴り・・・「入荷しました!」 タイミングよく入荷したそうです。
Wi-Fiモデルは比較的入手しやすい。

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実は、このi-Pad、長男(小6)の買い物なのだ・・・。
彼はノートPCを買おうと、お年玉を数年がかりで貯めており(ママ預金)、いつも電器屋でいじくりましては
「あーでもない、こーでもない」と購入していなかった。

タッチパネルでサクサク動くi-Pad・・・家の中でしか使わないからWi-Fiモデル。
キーボードも別売りであるし、旅行とかで持ち歩くときはお父さんのEMOBILE D25HWを使えばOKということで購入決定したようだ。 

5.88諭吉ですよ~!
いまどきの小学生はお年玉や小遣いをもらいすぎです。 
お年玉は、お母さんが預かって生活費にしちゃうんだけど、小遣い帳には記録されています。
突然のママ預金解約でピンチ! ワシのカードで払いました。

「ゲームや音楽聴くだけ」とご本人は申しているが、未成年には有害な画像を目にする日は近い・・・。
有害サイトの規制をかけるには無線ルーター側でできるようですが、そんなのは本人の自覚次第。
・・・・うーん、やっぱり心配。
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2010.06.23 1/144 熊本城
我が社でDeAGOSTINIの「安土城をつくる」・・・な人を二人知っている。
一人は築城中、現在73号(全110号)である。 もう一人は老後の楽しみのため購入している。
どちらも独身、莫大な軍資金と作業スペースをお持ちで羨ましい。

お小遣が少ない、我らにも築城のチャンスが巡ってきた!?
1/144スケールの熊本城 定価は2.5諭吉・・・結構でかい。 これを完成させて1枚写真を撮ったあと破壊して「西南役直後ジオラマ」を楽しむのもGood!?

この1/144スケールってガンプラ並べても楽しめるね~。

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メーカー㈱GSIクレオスさんのHP
尾鷲市 野地新町

豊臣方の遺臣で尾鷲へ住み着いた話に、もうひとつ次のような史実がある。
宇喜多中納言秀家が、関ヶ原の戦に破れ、その弟 周防守の子 清左衛門は、紀州若山に亡命したところ
君命によって母方の姓「浦上」を名乗ることになった。
この清左衛門の孫にあたる浦上半右衛門文主が、若山清渓院様に奉仕して、二百石を頂戴していたところ、
宝永5年(1708)6月のこと、突然尾鷲の浦へ左遷され、わずか十四人扶持に落とされた。

半右衛門文主は尾鷲に移り住んでから、15年後の享保7年(1722)に、享年69歳で亡くなっているが、
その間 寺子屋を開いて、大いに子弟の教育につとめたのであった。
まさに尾鷲教育の尖矢である。 ご本人は左遷されたので誠に気の毒なことではあったが、しかし尾鷲の
ためには非常に幸せだったに違いない。
現在尾鷲大庄屋文書等膨大な資料が残っているのも、こうした隠れた教育の賜物であると思われる。

その子、浦上半八秀方も儒医に秀で向陽館と号し、大いに子弟の教育に専念されたが、秀方42歳のとき、
即ち享保20年(1735)11月、尾鷲の郷土史とも言うべき「見聞闕疑集けんぶんけつぎしゅう」が
編纂されている。
秀方は時の大庄屋 仲彦助とともに、仲家に伝わる古文書を整理して、この編纂にあたったのであるが、
その序文には、「宇喜多秀方 俗称浦上半右衛門」と署名している。

浦上家はその後代々儒医として栄え、長く郷党の有益指導にあたられたのである、現在の野地新町にある
浦上家はその後裔である。

「伝説と詩の尾鷲  1959 太田壽 著」

・・・・う~ん・・宇喜多秀家って弟いたっけ・・・?
「ジイちゃん、怖い話ししてぇ~」

「うーん、そうやな~。 おらぁ子供の時分ににゃあ、近所のバアやんが言よったワイ。

 雨のヨウ降る夜中になぁ・・・・真田堤の近くを通ると「えっさ!えっさ!」って落武者が石を積む声が聞こえるんやって。
 のーじ(野地新町)にはなぁ、昔 真田の落武者が住みついてにゃぁ、村のもんらぁで世話したったもんで、恩返しに堤防やら井戸やらを一生懸命に造ってくれたんやでぇ。」

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真田堤は昭和の初め頃まで一部が見れたそうだけど、今は護岸工事が進んでコンクリートで何もかも埋めてしまってます。 よほど想像力が豊かじゃないと、真田流の石積みは想像できませんん・・・行くとガッカリです。

「真田堤」とは北川本流の堤防の他に、尾鷲駅方面からの水路に積まれた石垣もそう呼んでいたようです。
これは一部残っている・・・見に行ってもいいですが「ドブ」ですよ(笑)。

野地新町(旧地名:野地殿)は北川が運ぶ土砂が堆積した新地で、当時の野地村の東側に位置します。

中世の新地、野地殿は幾度も北川の大水に悩まされていたのでしょう。

この治水工事は二つの工夫がされており、真田堤で北川の流れを海のほうにきっちり曲げることと、水路を南西に長く堀り、増水のエスケープゾーンを造ったんじゃないかなと思います。

真田堤と平行して掘られた水路も同じ人物の工事指導だったので真田堤と呼ばれたのでしょうか。
中世の尾鷲に最先端の治水技術をもった人物が突然現れたと考えると面白いですね。

でも「真田の残党6人が、この地に落ちてきて堤防を造った」という伝説はロマンがあってよいのですが、真相は「?」です。
当時、奥熊野は北山一揆の勢力下であり大坂から逃げやすいといえば逃げやすい・・・でも、真田信繁(幸村)は討ち死に、一族玉砕ですからね。
「難波戦記」という軍記物語や江戸時代の「真田三代記」という小説の影響も受けて、最先端土木技術のヒーロー達が真田一族と噂されたのかも知れませんね。
 
真田だったら10人(十勇士)と伝わってもいいのですが(笑)

今度、「真田堤」付近の写真を探してみます。

尾鷲市には、このコンクリートに埋もれた文化財を掘り起こして北川(旧名:どんど川原)の景観といっしょに保存してほしいと願う。
真田堤地図
豊臣方の落人 その1
 
尾鷲市野地新町

当地方には豊臣方残党の隠れ住んだという話が二つ三つ残っている。
郡居雑記にも、熊野は避難の士多くあつまる所なり、相賀部便の山村に真田大助の邸跡あり、と誌されてあるが、その便の山には、今なお「真田屋敷」と呼ばれている屋敷跡がある。

山ひとつ隔てた尾鷲にも、慶長十九年大坂夏の陣のあと、さしもの豊臣家も全く滅亡して、最後まで戦い抜いた真田一族が、秋風落莫のなか、悲憤の涙をしぼりつつ残党六人とともに、尾鷲のさと野地殿(今の野地新町)にその身をかまつたという口伝がある。
それらの人々は尾鷲に安住して余生を保ち、その間 武を伝え、文を教えて、大いに郷土の開花にあずかったと思われるが、今往時を偲ぶものに真田井戸と真田堤がある。

真田の井戸というのは野地町の「豚福」こと湯浅家裏の井戸で、現在も盛んに使用されている。
この時代の井戸の特徴として、積み石の一番小さい面、即ち石の尖った先が井戸の面になって出ている。
井戸をのぞくと、一見小石で積み重ねた様であるが、石のかくれている部分は相当大きいので、この積み方なれば、絶対に崩れる心配はない。
全く良心的な積み方と言えるだろう。

もうひとつの真田堤は、北川の左岸にある堤防で、坂場の弥栄橋から勢いのついた水が、南へ流れて野地新町にドンと突き当たる。
北川はここから東に折れるのであるが、この突き当たったところが「真田の堤」である。
現在は砂利が堆積して、真田の堤もはるか川底にそのテンバだけを見せているが、どんな大水が出ても、この堤防だけは切れたことがないと伝えられている。
真田井戸と同じく良心的な積み方をしている故であろう。
大正末期までは、この堤の前も相当深くて、児童の水泳場所であったが、今はその面影もない。
だがこの堤は真田残党から尾鷲へ残されたものとして、今なお感謝の念を込めて伝え継がれている。

「伝説と詩の尾鷲 1959年 太田壽 著」
関東在住で東紀州出身者。比較的若い連中の集まりが6/19東京 田町の百代茶屋さんで開催されました。
この会は3年前に新橋のライオンでの飲み会で会が発足、雨つぶの会という名では2回目の開催です。

ゆるりとした雰囲気で、スライドで故郷東紀州の写真を見ながら歓談。
後半は恒例?の東紀州クイズ・・・今年は早押しの「ココどこ?」クイズです。
2年前まで尾鷲に住んでたSさんが圧勝!
賞品はお酒「備長炭梅酒」「紀伊国屋文左衛門」「熊野水軍」でした。
賞品選びは尾鷲・紀北の特産品を・・・と選んだんだけど、日持ちするものが見つからず断念。
紀州新宮のお酒となりました。

若いのに各界で活躍されている仲間がいて、大変刺激になりました。
彼らの中には、高校から実家を出て下宿生活、津市や松阪市の高校から東京の大学へという道を選んだ人も多い。
16歳で親元を離れて・・・当時のワシや、うちの子たちにも出来るのだろうか?

みんな、いくつになっても少年時代を過ごした東紀州が大好きです。

今年の集まりでは、ヤーヤまつり日程を大晦日に動かして「練り」ながら年越ししよう(NHK「ゆく年くる年」で中継してもらう・・・)とか市長にズボン吊りをプレゼントをしよう(笑)とか・・・楽しい話で盛り上がりました。
いいアイデアは是非、市関係者に提案させていただきます。

amatubu2011
写真提供:アオノリさま
三重県南部って行ったことありますか?
伊勢や鳥羽までは行ったことあるけど、その先は・・・今度、熊野本宮に行きたいからからドライブ休憩に寄ってみるよ。

地図で見ると三重県は縦に長い。松阪より南は険しい紀伊山地が海岸まで迫っており、平地がない。
人々は小さな平地、浦々、山あいの集落にへばりつくように住んでいる。

「紀勢自動車道」という高速の終点(2010現在)紀勢大内山をおりて一時間強、国道42号線をひたすら南に走る。
峠をいくつも越えてトンネルを抜けると突然「尾鷲」の街が出現する。
ほんと「ありゃー、こんな不便なところに意外な街があるじゃん!」・・・そうココが僕の自慢の故郷「おわせ」。


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天狗がいても河童がいても落武者がツチノコといっしょに隠れ住んでいてもおかしくない(笑) 素敵な街です。
熊野古道歩きや熊野詣の途中で、どうぞ立ち寄ってください。
有名な名所旧跡はありませんが、独特の方言に驚いたり、美味いモノがあったり、昔の港町風情が感じられますよ。

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去年の夏、図書館で「伝説と詩の尾鷲」1959年 著者:太田壽(旧尾鷲町長)と出逢った。
昔の尾鷲を知っている人は、みんな死んじゃった・・・これではイカンと思いキーボードをたたき始めた。

わが子も小学校6年生となり「宿題するからパソコン貸して~」と言ってデスクトップの前に座り込む。

クラスの仲間が行った事のない街を紹介するらしい。
毎年2回以上は出撃する、ワシの田舎「三重県尾鷲市」を調べるそうだ。

マイピクチャから夏休みの海や山で遊んだ写真を選び、コピ&ペでExcelに貼りつけていく。
慣れたもんだ・・・プリンタが動いて宿題完了。

次の日、学校で授業中にインターネットを使って詳しく調べたらしい。
彼は大好きな「尾鷲」「若木屋」と検索して・・・



・・・・・このブログを発見してしまったようだ・・・それも授業中。

あー・・・よかった「変な事」書いてなくて!!??
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